安全第一、支援第二
私は、30代半ばで、銀座のロータリークラブに入会した。
当時は、最年少だった。
懐かしい。
宅急便の創設者、ヤマト運輸の社長小倉さんが初代会長のロータリークラブである。
小倉さんは、気骨のある経営者だった。
デパートの配達をしていたが、デパートの駐車場料金を払えとの無体な仕打ちに怒って、その仕事を断り、その代わりの仕事として、独自に宅急便を始めた。
私は、お座敷の宴席に良く声を掛けて頂き、新橋でのお座敷のマナーを教えて頂いた。
新橋芸者さんは、銀座の無形文化財だと教えていただいたのは、この方からである。
毎週のお座敷に呼ばれるのは、踊り、三味線、謡のお師匠である。
この新橋のトップのお三方をお呼びすると、合計200歳を超える。
でも、お座敷での、かくしゃくとした、姿は、芸の素晴らしさだと納得したのを覚えている。
新橋演舞場の踊りの会に、行くのも、銀座のたしなみだと教えて頂いた。
その小倉さんは、ヤマト運輸の株45億円を寄付して、ヤマト福祉財団を設立した。
授産所と呼ばれる障害者施設での仕事が、月給15000円である事を知り、憤慨し、月5万円を支給できる職場を作った。
スワンと呼ばれる、焼きたてパンの店である。
同じロータリー会員のアンデルセンのノウハウで。
銀座病院も、沢山、クリスマスケーキを買って、消防署の救急隊に配った事がある。
私は、区役所に行く時は、必ずと言っていいほど、ロビーで、福祉法人が販売しているクッキーをお土産に買って帰る。
作っているのは、区内の社会福祉法人であるからだ。
そのクッキーを食べるときは、今でも小倉さんの事を思い出す。
会社を成功させて、その収益、財産で、新しい独自の福祉事業をする。
そうして、私は毎年自分の財産を寄付して、全国に社会福祉法人を設立するような人生となった。
ヤマト福祉財団の事務所は、築地の労働組合の隣のビルにあった。
そこに挨拶に行くと、事務用のテーブルと椅子しかなく、殺風景な個室だった。
小さな机に、パソコンが乗せられているだけだった。
机の引き出しは、空っぽで、何枚かの女子アナの名刺だけが転がっていた。
「男の名刺は、いらないから、帰ったら破って捨ててしまうんだ」と笑っていた。
これでは、男は名刺を出せない。
さすが。
とにかく、粋でカッコよかった。
毎日、行きつけの築地の小料理屋のカウンターで、1人で晩酌をしていた。
それも、様になっていた。
夫人を先に亡くされ、宝塚の娘さんも結婚してアメリカに渡り、80歳までの人生を銀座、築地で、孤高に生きて過ごされた。
毎週、ロータリーで、お会いしたが、とにかく、凛として孤高だった。
銀座の御隠居ではなく、古老の武士のようだった。
そのヤマト福祉財団では、社会福祉法人や、NPOの理事長に、小倉さん自身が、経営を教えていた。
障害者へ、月5万円払える、経営学である。
補助金をもらわず、パン屋で収益を上げて。
小倉さんは、安易な気持ちでくる、受講者を厳しく審査していた。
補助金や企業献金を当てにして来る人を、軽蔑していたと思う。
覚悟のある優秀な経営者でなければ、福祉事業はできない、する資格がないのだと、教えて頂いた。
とにかく、自分にも、他人にも厳しい、怖い人だった。
私は、銀座の救急病院の再建が軌道に乗った頃で、多少、自信過剰の時期だったと思う。
病院会や、銀座の若旦那の会や、ロータリーの活動に慣れた頃である。
その後、病院や老健から、老人ホーム、特養ホームへと福祉法人の事業に展開していったのも、小倉さんの経営力のある民間福祉事業に共感したからだ。
私の講演・授業は「行政・補助金頼みではない医療福祉事業の経営学」
自立した福祉経営。
対コロナ戦略特別車両カート、3台も補助金なしで開発した。
世の役に立つことが、評価されれば、やがて補助金も制度化されるかもしれないが。
湖山Gは、福祉ベンチャーの誇りを持っている。
意地と矜持が、湖山の美学。
その、ヤマト運輸のモットーは、「安全第一、営業第二」
湖山Gの、被災地支援事業も、危険を顧みずに現地に飛んで行くスタッフの命と健康を守るのが第一、支援事業は、第二だ。
支援ボランティアに、安全を保障するのが、経営者の責任である。
医療法人でも、福祉法人でも、NPOでも同じだ。
次は、現地の支援スタッフに、銀座から、オンライン診療で健康管理をする事も想定している。
守るべきは命は、被災者だけではない。
現場に果敢に挑む、ボランティアも同じだ。
私の来年度の、公衆衛生学の研究テーマも、「被災地での医療福祉スタッフの健康管理」とした。
兵士の命を守るのが、指揮官の仕事であり、責務でもある。
今日も、責務を果たす事に全力を尽くす。
血糖138 孤高にあらず皆と共に 湖山G代表 湖山 泰成