昭和大阪万博

昭和45年の大阪万博。
泰成君は、日比谷高校の1年生。
学ランが似合っていたかどうかは、覚えていない。
その夏休みに、家族で万博見学に行った。
泰成君は、その頃流行りの007のアタッシュケースを持ち歩いていた。
行きは、新幹線。
帰りは飛行機。
どちらも初めて。
大阪も初めて。
父の友達の財界人や、患者の関西の有力者のおかげで、大阪駅からお迎えがあり、おもてなしの旅だった。
初めての家族のスウィートルームでの宿泊。
神戸の夜景を見ながらの鉄板焼きステーキ。
今でも、その時の夜景を見ながらのお肉が、人生で1番美味しかったと思う。
どの展示会場も、紹介状があり、裏口から入ることができた。
医者とは、なんと恵まれた職業かと、思った。
帰りの飛行機は、緊張のあまり、窓からの風景を見られず、窓を閉めて本を読んでいた。
しかも、線を引きながら。
眼下の地上を見るのが、怖かったのである。
その事を父に見透かされて、怒られたように思う。
表紙を外した、紫色の本までは覚えているのだが、作家の名前を覚えていない。
飛行機に乗るのが怖いのを、誤魔化したかっただけなのだ。
気の小さい子供だった。
その後、幾度、新幹線と飛行機に乗って大阪に行ったことだろうか。
万博会場は、その後、国立民族学博物館になった。
黒川紀章のメタボリズムの設計が好きだった。
20代は、毎年、その博物館に通った。
京大の民俗学民俗学の梅棹忠雄教授が初代館長だった。
私は、高校の時から、梅棹忠夫先生の岩波新書の「知的生産の技術」の愛読者で、そこに紹介されている「京大式カード」の実践者だった。
でも、その頃の、私の知的生産の記録にあたるメモの、B6カードは、今は1枚も残っていない。
学者や、評論家になるのを諦めたのだ。
でも、そのお陰で、読書が楽になった。
映画館だけではなく、美術館や博物館に行くようになった。
今日から、大阪に行く。
久しぶりに、学会に参加する為である。
湖山Gがスポンサーのランチョンセミナーでは、大勢の湖山Gの医師や営養師に会える。
もう、読書もせず、大阪迄の車窓の風景を楽しむつもりだ。
国立民族博物館を日程に入れておけば良かった。
博物館メンバーズカードは、とっくに失っている。
何せ、飽きっぽいのだ、泰成君は。
大阪では、おでんの事を「関東炊き」「関東煮」と言うのを思い出した。
クジラをサエズリとも言う。
開高健の随筆にハマっていて、わざわざ、ミナミにおでんを食べに行った。
あの頃の、情熱は、もうない。
今度の大阪は、何を食べよう。
同行する、同好の士に、相談しなければならないが。

パルスオキシメーター 98・98・99
体温36.6 血糖188

ミナミの関東炊き 代表 湖山 泰成

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