東日本大震災での二次遭難
東日本大震災は2011年3月11日金曜日。
実は、気仙沼においては、海岸沿いにある老人保健施設が、2階まで浸水し、入気者のお年寄りは、全員屋上に避難した。
でも、翌朝、雪となり、何人かは、命を落とした。
介護施設の入居者は、施設の中での環境とお世話がないと生きられない人もいる。
だから、施設があるのだ。
だから、施設に入所しているのだ。
だから、スタッフが24時間介護をしているのだ。
救急救命と違った、長期間の見守りが介護だ。
介護は、弱者の命の絆。
赤ん坊と同じ人もいるのだ。
2日後の日曜日には、私は、気仙沼の湖山Gの老健の入り口に立っていた。
停電で暗いロビーから、大勢の入居者が出迎えに出て来た。
和服を来た女性が多かったのを記憶している。
気仙沼の湖山Gの老健は、幸いな事に山の上にあった。
元、小学校跡地、その前は、神社があったと聞いた。
神社があった場所とは、災害時の避難場所になる。
そういう、安全な場所に神社は作られる。
その老健は無事だった。
震災のその時は。
でも、電気も水道も電話も通じない。
エレベーターも動かない。
何しろ、トイレが流れない。
非常電源に、炊飯器と電気ポットが多数つながれてあった。
おにぎりとインスタントお味噌汁だけで、入居者とスタッフと、更に、地域から避難して来た高齢者が50人はいた。
デイケアの利用者も帰れない。
スタッフは、自宅の家族の事が心配でも、帰る事も出来ないし、電話も通じない。
それでも、責任を持って、施設を守っていた。
休みで連絡の取れない職員の安否も心配だったが、全員の無事が確認できたのは、2週間後の事だった。
早く、全ての携帯電話が、衛星通信になれば良いのにと考えたのを思い出した。
その後、その施設には、衛星電話を設置した。
デイサービスとロビーには、一面に布団が敷かれていた。
到着して最初にした仕事は、床の布団の下にダンボールを敷いた事だ。
それくらい、寒くて、皆凍えていた。
水は、車で近くの泉に汲みに行った。
排泄物は、バケツで施設前の崖に捨てた。
翌年には、その崖は、花が咲いて草が茂っていた。
本当である。
地震で、全国の通信網は、切られてしまっていた。
電話もメールも通じない。
心の絆だけが頼りだった。
その状況で、私は、何故、気仙沼に行く事ができたのか。
私は、政府の特別な許可をもらい、ボランティアの災害救援のヘルコプターの協力を得て、気仙沼の施設に救援物資を載せて飛んだのだ。
3台のヘリで。
震災後、民間初のフライト許可だった。
3月13日、日曜日の事だった。
実は、スタッフにも、親にも秘密で黙って飛び立った。
言えば、反対されると思ったし、ヘリコプターで、日帰りの予定だった。
それも、山形空港で、帰りのガソリンが買えればの話だったののだが。
実際には、民間ヘリには、帰りのガソリンを売ってもらえず、私は、気仙沼の施設から帰れなくなってしまったのだ。
愚かにも、救助に行って、自分が帰れなくなって二次遭難してしまったのと同じだ。
しかも、更に愚かな事に、職員にも家族にも秘密で飛んで行ったのである。
これでは、救援隊失格だ。
私は、東京にも誰にも連絡が取れず、途方に暮れていた。
でも、その気仙沼に、連絡の取れない状況でも、山形の湖山Gの病院から、ワゴン車が続々と到着した。
自分の行動は棚に上げて、びっくりした。
感激した。
そして、その車で福島まで送ってもらった。
私自身も、湖山Gの救援隊に救ってもらってのである。
福島からは、静岡の病院から支援に来た救急車に乗せてもらい、東京迄乗せてもらって、東京に帰る事ができた。
救急車は、東海大震災を想定して、高速道路を走る特別許可を取っておいたのである。
帰りの高速道路は、無人だった。
その帰りの救急車のガソリンも、民間だと言うことでガソリンを売ってもらうのに難儀した。
その経緯は、売ってくれたスタンドに迷惑がかかるので、仔細は、話せない。
行きは、ヘリで空を飛んで、2時間30分。
帰りは、地上を走って24時間かかった。
上空のヘリから撮った原子力発電所の写真は、NHKの特番で放送された。
災害時には、生き延びても、助かった被災民に、長い生活支援の手を差し伸べなければ、生き続ける事はできない。
能登半島地震の今、現地では、電気ガス水道が止まった家にも、避難所にも、寒さに凍えている被災民が大勢いる。
救援活動は、長く、長く続く。
全ては、始まったばかりだ。
パルスオキシメーター 96・98・98
体温36.5 血糖161
老いたる者の祈り 代表 湖山 泰成