「お疲れ様でございました」
今年の夏は、猛暑のせいか、歳のせいか、銀座統括本部に一日中こもっている日が多かったと思う。
映画館や、美術館に行く時間も例年より少なかった。
見たい映画や、展示会が少なかったのか。
いや、あの映画は観ておきたい、あの展示会は、見逃せないといった、抑制できないほどの欲求が湧き上がらないのだ。
割と、またにしよう、来週でも間に合うといった、先送りで我慢ができてしまう。
これは、精神の枯渇か、単なる肉体の衰えか。
それでも、それを自ら納得して受け入れてしまうのだ。
昔なら、衰えを嘆き悲しむところだが、最近は、その老いを素直に受け入れてしまうのが、更に哀しい。
今週は、一日中、役員会や、会議だった。
ズームで、大勢の役員の顔を見ながら、1日話している。
ほとんど、私1人で。
1人で、演説と言うより、皆に切願しているのだ。
全施設の建て替えと、法人組織の再編成を。
医療介護は、今までは、湖の上に浮かぶ蓮であった。
今は、川の流れに翻弄される、落ち葉のように思える。
行き先は、まぐれもなく、滝である。
その緊張感で、職場では、戦闘中の指揮官である。
目の前に、敵が見えるわけではないから、潜水艦の艦長の気分だ。
センサーの音で、海中の環境を感知する。
経験と勘と運に頼るしかない。
そして、職員幹部には、信頼して託すしかない。
まるで、祈りの経営だ。
1日の職務が終わり、エレベーターに乗る時には、秘書や部下がお見送りをしてくれる。
「お疲れ様でございました」と。
本人達も、嬉しそうである。
ほっとして、自分達も帰り支度が出来るからである。
私も、ご苦労様と感謝の気持ちを胸にして、エレベーターの扉が閉まるのを待つ。
お疲れ様でした。
これから、週末の作業が始まる。
パソコンに1人向かうのは、作業か、思索か。
今週も、無事、過ごせた、生き延びたと言う感慨ばかりだ。
若い時の週末は、輝いていた。
今は、暗くはないが、眩しくもない。
軽くはないが、この、経営者としての重圧を、生き甲斐として、今を生きる。
ご苦労様と、自分で自分に声をかけてお茶を飲む。
後、何年くらい、このような週末を迎えるのだろう。
永遠ではない事はわかっているのだが、これからも、長い山道が続く。
上り坂よりも、下り坂の方が、危ない、怖い。
その事を、幹部達が認識していてくれれば良いのだが。
テンションを上げるな、頑張るな、慌てるなと言われても、年と共に、気は短くなる。
そう言う時に、この時間は、泰成君が、心の中に登場する。
私が呼ばずとも、彼の方から、登場してくれるのである。
彼なら、どう、慰めてくれるだろうか。
私には、思い出に浸る余裕は、ないのだが。
血糖159 70歳の泰成君