輪島市朝市通りの火事現場
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昨日は、早朝から、夜まで能登半島をカート、キャンピングカーで周遊した。
道路は、殆ど改修され綺麗になっていたが、ところどころで車がジャンプする。
道路の亀裂は残っているのだ。
周辺の山辺の林は、傾いた木々が見える。
地域社協事務所と、福祉施設に、クックデリと冷凍食品を届けた。
既に、食した事があるらしく、美味しい物をありがとうと喜ばれた。
クックデリは、また、届けてくれるだろう。
役所のスタッフも地域の住民だ。
同様に被災者であり、センターで寝泊まりもしていたらしい。
それでも、明るい対応に、頭が下がった。
テレビで観たはずの、壊れた民家。
どこかしこに、半壊した住居がある。
玄関には、赤、黄色の紙が貼ってある。
それらの家は、生活不可と認定された危険家屋。
それらを解体し、整理するには、パワーシャベルの小型重機が活躍する。
それがあって、助けられた人も、なくて助けられなかった人もいる。
救助活動には、ありとあらゆる装備が必要だ。
カートにパワーシャベル搭載のトラックも必要だと思った。
現場でその重機を動かし、救命活動をした人とも出会い、その現場で状況を説明してもらった。
その人は、半壊した建物を修理し、キャンプのような生活をしていた。
単身、男の秘密基地のような住まいは、居心地が良さそうだった。
五右衛門風呂のような風呂もシャワーも手作りであった。
逞しいのだ。
単身、車で駆けつけ、その場で出来ることは全てやる。
そういう、被災地ボランティアの勇士が、何人もいる。
そういう、地の塩のような勇敢だが、地道な活動家がいる。
このようなボランティアも、当初は、被災者用のトイレやシャワーを使うなと言われていたそうだ。
食べ物は、持参が原則だが、長期滞在で地元にそう言われるのは、現実的ではないと思う。
それでも、そのボランティアの人は、この仕事は、そんなものです、と明るく語っていた。
たくましい。感激した。
軍隊は、食事ばかりか、トイレも風呂も用意する。
兵士の生活の全てを供給できる体制で移動する。
そこが、地元警察との違いだ。
カート連隊は、ミニ軍隊の装備にしないといけないと考えた。
やがて、トイレトレーラー、シャワートレイラー、洗濯トレイラーなどが登場する時代が来るだろう。
半島の道の駅を、幾つも見て回った。
道の駅は、災害支援拠点でもある。
災害時でも、法律で、トイレと電話の確保が優先されている。
今回も、ボランティアの集合場所となった。
道の駅の設立委員会には、医療福祉の立場で、関わった事がある。
実際、私は、健康の駅の理事を勤めている。
健康の駅の第一号は、静岡の湖山Gの特養ホームである。
湖山Gの災害支援隊は、これらの現地現場ボランティアの、後方支援ボランティアとなるべきだと、夜の反省会で、論議した。
軍隊で言えば、補給隊、兵站部門である。
湖山Gの医療福祉施設を、後方支援基地とする。
それだけの敷地、設計設備、備蓄。
どれもお金のかかる事ばかり。
地域医療福祉は、自然との戦い、共存でもある。
1番ショックだった光景は、輪島市の市場通りの火事現場である。
海の見える、川沿いの広い地域が、一面、焼き野原となっている。
現実とは思えなかった。
まるで、ゴジラ映画の撮影シーンの後のようであった。
何十人もの死者が出たと言う。
多量の水があるはずの、川と海の目の前で。
人間とは、なんと虚弱な生き物か。
生活とは、なんと脆い住宅で行われていたのか。
生きて、人の命を守る仕事をできる幸せを実感した。
サンダーバードに、平時はない。
常に、助けられるか、助けるかの戦時を生きる。
そう志す人が、湖山Gに集合する。
そして、支援ネットワークを構築する。
偶然の出会いが、経営の必然となる。
湖山Gの、新たな結束が生まれた1日だった。
お土産には、道の駅で、輪島の、海女の塩を買った。
血糖168 夕食のソフトクリーム2カップと、深夜の揚げ煎餅
湖山G代表 湖山 泰成