雪降る町の火事
南極越冬隊長だった方から聞いた事がある。
南極で1番怖いのは、火事なのだそうだ。
消化に使う水がないからだ。
氷の上で、凍えて死んでしまいそうな世界で、一度火事となると、消火が困難となる。
建物が燃え出すと、加熱は強く、氷点下でも消えない。
普段から、飲み水も、毎朝、隊員全員で、雪を集めて溶かす。
南極の氷の厚さは、平均2500m。
氷に穴を開けて釣りも出来ない。
南極越冬隊の研究の一つは、ドリルで穴を掘って、深部の氷の成分を調べる事。
その氷で、ウイスキーの水割りを飲んだ事がある。
氷が溶けると、圧縮して氷に閉じ込めれていた太古のその時代の空気が出てくる。
プチプチと音を立てて。
数万年前の空気が音を立てて現代に出現する。
男のロマンだと感じた事を思い出した。
寒い雪国での、火事も消化は困難。
冬場の被災地は、老人、病人は生き続けて行く事は出来ない。
東日本大震災の時、私がヘリコプターで、大震災2日後の、3月13日に救援に行った気仙沼も
雪が降るくらいの凍えるような気候だった。
気仙沼では、実際、そのせいで、命を落とす高齢者もいた。
湖山Gの施設は、躯体にヒビが入り、電気水道下水配管も壊れていた。
当然、トイレも流れない。
流す水などある筈も無い。
エレベーターも動かない。
修理してくれる業者も、来る筈がない。
厨房も風呂も使えない。
施設とし、稼働しない。
それでは、病院でなくとも、その施設に入居している高齢者の利用者は生きていけない。
私は、直ぐに、山形の湖山Gの病院に全員避難する事を決断し、実行した。
病院の救急車で、入居者をピンポン輸送して山形の病院に搬送した。
入院患者が突然倍になった、湖山Gの病院も、悲惨な状況だった。
その状況は、NHKの取材を受けた。
受け入れた病院のスタッフも大変だった事は、言うまでもない。
患者が倍になったのだから、不眠不休だった。
その後、気仙沼の老健の修理には、半年近くかかった。
そうして、その後、利用者も気仙沼に帰郷する事ができたのだ。
でも、その時に、行政には、県内で避難先を探せ、他県に搬送する事は許可しないと言われた。
私は、県内で避難先を探すのは、非現実的だと判断し、行政命令を無視して山形に搬送を決行したのだ。
あの時、原発近くの病院が、県外に搬送する事を許されず、多くの老人患者を乗せたバスが県内を放浪し、多くの患者が生き延びる事が出来なかった事件は有名だ。
流石に、今は行政もそのような指導する事はない。
行政も、今は、広域連携を志向している。
その時の3月末は、、国の御達しで、借金の繰延返済が許された。
でも、湖山Gは、全財産、全手持ち資金を使って、金融機関に、いつも通りの返済をした。
職員寮の建設や、施設の修繕には、多大な資金がかかる。
新たな借金を願う必要があったからだ。
湖山Gと、お取引のある金融団との信頼関係は、その時にできたのだと思っている。
あの時、原発近くの福島の病院が、県外に搬送する事が許されず、患者を乗せたバスが県内で放浪し、多くの老人患者が生き延びる事が出来なかった事件は有名だ。
湖山Gも、サンダーバードも、その広域連携の実働隊として存在するのだ。
日々の災害訓練も、セミナーも、研究も、その日に行動する為だ。
湖山Gも、サンダーバードも、寄付としていただいた義援金は、すべてガソリンや水や食料や
派遣されるスタッフの汗と涙となる。
この日記を読んで、心して頂けるだけでも、救援支援をしているメンバーは感謝する。
励まされる。
頑張ろうと思う。
現地の被災民の方々に伝えたい。
経験から、できるだけ、他県に避難してほしいと、私は願う。
湖山Gは、全国どの病院・施設でも、出来るだけ受け入れる。
実家、親戚のいらっしゃる地域に湖山Gの施設あれば、ご連絡を頂きたい。
被災地の皆さん。
設備の整った病院や介護施設、ホテル旅館に避難して欲しい。
自宅や財産を残して、移動する事は、後ろ髪を引かれる思いだろうが、命がかかっている。
全国の県が、少数の住民単位で良いから、被災民を受け入れて欲しい。
義援金も大事だが、東日本大震災での経験ではそれも、直ぐには使われなかった。
国が財政支出をした、復興資金も、すぐに使われていなかった。
お金があっても、有効に活かす組織が足らなかったのだ。
社会の仕組みが足らなかったのだ。
それで、私は、サンダーバードを立ち上げた。
湖山Gのヘルスケアデザインネットワークも動き出している。
長い、長い戦いが続く。
生き残る為の戦いだ。
生き続けている限り、戦いは終わる事はない。
輪島朝市、雨中の捜索:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO77527390Z00C24A1CM0000/
パルスオキシメーター 99・99・99
体温36.5 血糖123
心は現地に飛ぶ 代表 湖山 泰成