翌日
東日本大地震の翌日は何をしていたか。
一日中、ベットで電話をかけていた。
ネットも繋がらない。
まずネットで、繋がったのが、新潟県、鳥取県。
全国どこが被災地でも、電話、ネットは、首都圏に集中してしまい、パンクする。
東京は、1番に繋がらないのである。
日本海側を経由して、ネットも復旧していたと思う。
テレビをつけっぱなしにして、ネットを片目に、電話をかけ続ける。
今も大して変わらぬ、日常の私の仕事ぶりだ。
どこかで、被災地救援のNPOにつながり、そのルートで、首相官邸の補佐官につながった。
民間救急ヘリコプターが、気仙沼まで飛んでくれると言う。
私が、被災地の介護施設の経営者だから。
救援物質を、緊急に運ぶ必要があると言う名目で。
民間初の被災地へ飛ぶヘリの許可だった。
殆ど、期待せずに、許可の電話を待ち続けた。
何も手がつかなかった。
今思えば、その間に、持って行く物の準備や、遺書や、部下への指示書を残すべきだった。
と言うのは、両親にも、部下にも秘密でヘリで、東北に旅立つ事になったからだ。
何故、同居の両親に一言も言わずに、こっそりと出かけたのか。
親に心配させられないなどの、考えがあったのかも知れない。
でも、今考えれば、それは、ないだろう。
正直に言って、私は、動転し、混乱していたのだ。
恐怖と不安で、正直に、親にも、部下にも相談できなかったのだ。
何の、計画も勝算もなく。
ただ、被災地に身一つで飛んでいったのだ。
救援物質も、袋一杯のチョコレートやお菓子のみ。
カメラも持たなかった。
ドコモの携帯と、アイフォンは持っていった。
翌日は、今座っている寝室のベットでうずくまっていたのだ、一日中。
待つしか出来ない、無力な1日だった。
次回、万が一、その日が来たら、私は、リーダーとしてどうあるべきか。
その答えは、今でも誰も見つからない。
パルスオキシメーター 96・97・97
体温36.7 血糖294
お茶にジャム許すまじ 代表 湖山泰成