字幕文化
泰成君にとって、映画館で映画を観るという事は、字幕を読むという事だった。
字幕には、難しい字もあるし、手書きの読みずらい字もあった。
そして、フランス語やイタリア語の発音を宇宙人の呟きのように聞く。
文化的な理解は、その先に本を学んで知るようになる。
その後、その翻訳が意訳が過ぎて問題になるのを知るのは、大人になってからだ。
5歳の泰成君は、テレビで漫画の「ポパイ」を観るのだが、英語音声で字幕だった。
その漢字が読めず、台所で夕飯を調理中の母親を叫んで呼ぶ。
天ぷらを揚げている母はすぐには、テレビのある居間にとんで来れない。
来てくれた頃には、場面は変わっている。
その場で、泰成君は泣き出した。
母は、エプロンで泣き叫ぶ泰成君の涙を拭って慰めてくれるのだが、怒りは収まらない。
何故、そんな記憶が今でも残っているのだろう。
泰成君は、10歳になった。
毎週日曜日は、お風呂の後に、テレビで映画を家族と一緒に見る。
どこの家庭もそうだったのではないか。
その番組では、淀川長治の軽妙な挨拶と解説の方を覚えている。
次週予告の最後に、サヨナラ、サヨナラ、と言うので、サヨナラおじさんと呼ばれていた。
テレビで観る映画は、吹き替えだった。
役者の本物の声よりも、吹き替えの日本人役者の声が記憶に残る。
アラン・ドロンの野沢那智。
ジャンポール・ベルモンドの山田康雄。
鬼警部アイアンサイドのレイモンド・バーと、007のショーン・コネリーの声は若山弦蔵。
今でも、画像を思い出すと、声優の声の方が蘇る。
今でも、本人のフランス語や英語より声優の声が画像に張り付いている。
10代の頃の映画友達に、吹き替えのテレビは観ないという人がいた。
映画館で本人の声を聞かないと、本物を楽しだ気がしないと言うのだ。
その人も、字幕がなければ理解できなかったはずだが。
日本は、明治以来、翻訳と字幕文化で外国の知識文化を貪欲に吸収して来た。
そのおかげで、外国語の習得はおざなりになってしまったかもしれない。
やがて、チャットGPTで、字幕の翻訳家も選べるかもしれない。
AIで、声優も、お好みで選択できるようになるのかもしれない。
トム・クルーズの声を彼氏にして映画鑑賞のデート。
そんな時代は、来ないで欲しい。
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湖山G代表 サンダーバード代表 健康の駅理事
おはよう叔父さん 湖山泰成