東日本大震災当日
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その日、その時間は、私は、永田町のビルの14階にいた。
元厚生大臣の事務所に挨拶に行っていた。
細い、高い新築のビルは揺れに揺れた。
眼下に見える公園では、人が右往左往している。
その時は、関東大震災の再来だと思った。
エレベーターは動かない。
当時の運転手は若い熱血漢で、本人が階段を駆け上がってきてくれた。
その彼に抱えられるようにして、時間をかけて階段を降り、地上に立った。
そこから、銀座本部までは、距離はわずかなのだが、渋滞で、何時間もかかった。
電話もメールも通じない。
まだ、地震の詳細はわからず、他との連絡もつかない。
情報のない状況での不安は、大きかった。
全国の湖山Gの施設はどうしているだろうか。
普段からの準備、心構えの成果が発揮される。
その時、東北の幹部達は、福島に集合して会議だったそうだ。
各自、車で、各県に帰ったと聞く。
私は、とにかく、銀座を目指すしかなかった。
銀座本部で、ただ、ただ、情報をまった。
この時に学んだ事は、大きい。
全国の施設とは、連絡がつかず、状況把握は、テレビ放送のみ。
指示も出来ない。
でも、各施設が、自主判断で、やるべき事をする。
その時、全国の施設は、当日から、東北に向けて、ワゴン車が動きつつあった。
救援物資と、救援スタッフを乗せて。
普段から自主的運営体制であったが、この非常時にどのようにしているかは、当時の私には、わからなかった。
湖山Gの施設が、独自判断で、どのような救援活動を始めたかは、数日後になって知ることになる。
どの施設の幹部も、少なくとも、私よりも、冷静で、確実な行動であった。
私は、可能な限りの手をうった。
とにかく、電話をかけ続けた。
官邸のルートを使って、気仙沼への、ヘリコプターの許可をとることが出来た。
その努力によって、2日後に、ヘリコプターに搭乗する事が可能になった。
でも、これも勇み足だった事は、その後に解るのだが。
血糖166 六本木ヒルズ展望台と、お台場レゴランドの散歩のおかげ
児童は可愛い 銀座の御隠居 湖山G代表 湖山 泰成