藁半紙の手触り
美味しい記憶は、舌で覚えた味よりも、香りの記憶。
マドレーヌや、ブイヤベース、シチューの香り。
お味噌汁や、おでんの香りもあった。
そして、ワインやブランディーの香りも。
紅茶の香りは、安らぎの記憶。
知識の記憶は、手触りだ。
図書館や、本屋で、本を持った時の。
書棚の本の背を見るだけでも知識の記憶は、蘇る。
本の背を見るだけでも内容を思い出す。
手にとって、本の背を指でなぞり、表紙を手で触れるだけで、読んだ頃の時代も思い出す。
図書館や古本屋街を回るのは、タイムトラベル。
最近は、新聞はネットで読むので、紙の新聞を手に取ることは少なくなった。
私の机の上には、50センチくらいの刃渡りの鋏と、定規が置いてある。
皆さんビックリするが、これは、あなたの首を切るためではない。
新聞切り抜き専用鋏なのだ。
定規も、これで、新聞を破るように切り取るための道具だ。
小学生の頃は、新聞切り抜きのスクラップブックを作るのが趣味だった。
知識の記憶は、手触りの触覚の記憶だと思う。
鉛筆を持った時の指の筋肉の記憶を思い出して欲しい。
机に向かって、勉強していた頃の気持ちに戻りませんか。
紙の新聞は、やがては消えてしまうのかもしれない。
私が、紙の新聞を購読するのをやめたのは、新聞紙を捨てるのが、億劫になってきたからだ。
紙を捨てるのも、抵抗があった。
新聞配達所は、新聞紙だけリサイクルに回収してくれたら、紙の購読者は増えるかもしれない。
どれも、手間とコストの問題なので、無理だろうが。
さて、本の記憶に戻る。
私は、高校の図書委員長だった。
図書委員の義務に、古い本の表紙を付け替える作業があった。
主に、古い古い岩波文庫だ。
本の背表紙を、裁断機を使って切り落とす。
指を切り落とさないようにと注意されながら。
そして、新しい表紙を糊で貼り付け、本を圧接機に挟む。
その工程も、手触りの記憶で残っている。
職人芸の記憶だ。
技能ばかりか、知識の記憶も、筋肉や手触りの記憶で導き出される。
読んだことも、忘れていたはずの本の記憶も、本棚からその本を手に取って、表紙を見るだけで、昔の恋人のように記憶に蘇る。
小学校の頃は、勉強に藁半紙を使った。
あの手触りは、私の記憶のどこかにあるはずだ。
小学校の思い出と共に。
パルスオキシメーター 95・98・97
体温36.7 血糖203 出汁で炊いたタイ米
失われた記憶 代表 湖山泰成