アトランダム
連休の多くは、自宅で、ベットでYouTubeを聞いていた。
様々の分野の講義というか、解説というか、ユーチューバーの自己発信、自己宣伝を。
ベットで、一人暗闇の中で、聴いていたせいもあったかもしれない。
あらゆる分野の情報がある。
自己主張は少なく、解説、説明で、短時間で、情報、知識を簡単に得られる。
でも、一方的なので、そのうち心に残らなくなる。
自動的に、次の番組が送られてくるので、無限に近く番組が続く。
つけっぱなしのテレビと同じかというと、同じテイストなので飽きてくる。
三日間、ネットの情報シャワーを浴びていると、精神的に、うんざりしてきた。
実体験の少ない、若い人が、この世界に浸かっていると、本当に染まってしまって、精神のバランスを欠くのではないか。
自分で、考えて行動し、実社会で検証する生き方をしなくなってしまうのではないか。
最近、社会で信じられない行動する人が、マスコミを賑わす。
身近に、行動を一緒にする人がいなくなっているのだと思う。
家族も、友達も、同僚も、皆、クールな距離を保つのが当たり前の時代。
夜の飲み会や、パーティーが少なくなったのも、この事においては良くないかもしれない。
自宅での、孤独な療養の時間が、孤独な苦しみの時間になりそうだと感じた。
そうならずにいられるのは、洞窟にこもっていても、銀座日記を発信しているおかげだと思う。
ネットで、知らない事を検索するのは、便利だと思う。
でも、YouTubeで自動的に送られてくるのを、惰性で聴いているのは、危険ではないかと思えて来た。
図書館や、本屋で、多数の本の背表紙を見て、読みたい本を探すのとは、だいぶ精神的に違う。
野山を散歩するのと、部屋で足踏みをするくらい、精神状態は、違う。
早く、職場で仲間に会いたいと思った。
ネットに浸かりすぎると、リアルな人とのコミュニケーション能力が難しくなるのではないだろうか。
シャワーのような、一見効率の良い、時短の情報収集は、脳の受け入れと情報加工能力を落としているような気がする。
と言って、何もなく、坐禅のように、あるいは、クラシックだけを静かに聴いている事も苦手だ。
自分自身が雑音の塊のように思えて仕方がない。
あるいは、新聞記事のスクラップブックか。
理想の人間らしい、生活、暮らしとは何だったのだろう。
自分は何を追い求めてきたのだろう。
来るべき社会、未来への不安は尽きない。
それを超えるだけの生きる力、情熱は続くのだろうか。
安心させてくれる情報は、どこにもないのはわかっているのだが。
パルスオキシメーター 97・97・98
体温36.5 血糖179
1人の舞踏会 代表 湖山 泰成