残食

42年前、30歳になったばかりの、銀座の救急病院の常務理事の時の話である。
早朝、玄関のシャッターを開ける時から、深夜閉める時まで、病院を離れられない。
毎週、木曜日は、当直をしていた。
救急車は、1日平均5台くらいは来る。
家に帰るどころか、昼食に出る時間も惜しい。
営養科、食堂、厨房は地下にあった。
そこに行くと、検食用で食べられていない食事が、何時も残っていた。
当直者の医師、看護師は、パートが殆どで、食べない人が多かった。
私は、毎日のように、残された夕食か、朝食を検食した。
誰かが、検食をして、印鑑を押さなければならなかったのだ。
そうしている内に、厨房の職員と毎日、言葉を交わすようになった。
全員、高齢の女性だった。
疲れたと言って、タバコを吸う為に、食堂の椅子に座る時には、三角ナプキンを頭から外し、髪を直す仕草が記憶に残っている。
その彼女が言った。
「毎日、作っても、残食が多く、捨てるのが勿体無い。
夕食で、残った料理を持って帰りたい」
もっともな気もしたが、その場で禁止した。
「もしも、自宅で食べて食当たりでもしたら、保健所を呼んで、厨房を閉鎖しなければならない。
また、他の職員から見て、何時も、自宅の分として、余分に作っていると思われるだろう。
どんなに余っても、もったいなくても、全て、管理して破棄する。
持って帰る者がいれば、懲戒になる」
そう、強く言い渡した。
やっと、友達になれた、その厨房の女性は、がっかりしていた。
その職員の顔や、その時の場面は、今でもよく覚えている。
その職員こそ、私が最初に、決算賞与を現金4万円を手渡した時、感激して、泣いて、私の手を握りに来た職員だったからだ。
その後、診療所に転換し、厨房を廃止した。
そして、その職員は退職した。
その時も、「何故私は辞めなければならないのか。銀座に勤めている事を誇りに思っていたのに」
その時も、さんざん泣かれた。
それも、辛かった。
経営者としての、成功と失敗の忘れられない思い出である。
その後、施設を増やし、職場を増やし、広げる事に邁進したのは、この時の記憶の影響があるのは、間違いない。
経営者は、現場の職員に怒られ、恨まれ、泣かれて己の非力を知らされるのである。
厨房の職員から、職場の不満と愚痴を聞くことで、病院の現場を教えてもらったのである。
その後、その高齢の職員とは、数年後、東京駅で出会った。
駅で清掃の仕事をしていた。
明るく、元気でモップを持って働いていた。
なんとも、逞ましく、また、都心の好きな人なのだろうと思った。
地方に老人保健施設を作りはじまた頃で、新幹線に乗る日々だったのだ。
その後、給食の残食の問題を幾度も考えた。
食堂で、職員が食べる限りにおいては、問題はないのだろうと思う。
どうか、当日出勤の職員の皆さん。
遠慮なく、食べていってください。
但し、検食簿には、サインを忘れないように。
お代は頂きません。
リストラも、人手不足も、経営者には、1番辛い。
それに比べたら、借金など、辛くはない。

明け方の羊羹 血糖 246 反危弱性の経営者 湖山泰成

銀座湖山日記

Posted by shimada