映画祭を考える
私の哲学の恩師は、映画は、総合芸術と最初に言った人だった。
映画は、何でもありで、人間の認知そのもの。
社会そのものを、まるどりに出来る。
いや、出来そうに思わせる。
同じ、レンズの目を通して見るのだが、出来上がった作品の静止画の写真と動画の映画では、観る方の心の動きは、全く違う。
この違いをどう分析するか。
抽出と攪拌。
切り取りと連続。
現在と過去、未来。
写真展も好きだが、映画祭は、もっと気になる。
映画祭は、一時、全国で自治体の支援のもとに行われた。
流行だった時代もある。
でも、成功し、現代も継続している映画祭は、数えるほどだ。
それでも、映画祭は、行われる。
ネットで、いくらでも世界中の映画を、個人で自宅で観る事が出来る時代。
それでも、映画祭には、心が動く。
これは、映画そのものよりも、映画好きな人達と逢いたいのだ。
同好の士で集まりたいのだ。
ファンクラブなのだ。
施設を作りに、全国を回ったが、同時にその地の映画館や、映画祭には、足を運んだ。
残念だが、現在は、映画祭が盛り上がっているとは言えない。
その必要がなくなったのか。
経済的に余裕がなくなったのか。
映画は、時代と政治の鏡だと思う。
映画祭は、時代と政治に加えて、地域性と歴史があるのではないかと思っている。
純粋なファンの集いだけでは、盛り上がらない、人は集まらない。
昔は、映画評論には、政治性のある意見が多かった。
今は、そうではないような気がする。
それだけ、映画そのものの社会的性が、相対的に下がったのだろうか。
そうだとしても、私にとっては、映画の価値は変わらない。
私にとって、映画は、私の人間の成長の記録なのだから。
泰成君の、世代日記なのだから。
では、学会は如何なるものか。
これは、同窓会でもあるのだ。
ネット、オンラインの時代だからこそ、直に会って論議する場は貴重だ。
今日から、鹿児島で、学会が始まる。
そして、来週は、東京で映画祭が始まる。
どこにいても、オンラインで仕事ができるのが、辛い。
忙しい日々に感謝。
刺激的な日々が続く。
血糖152 鹿児島の天ぷらは、意外と軽やかで淡白で上品。豚味噌が秀逸。
桜島を観る。 湖山泰成
