命日
今日は、父の命日である。
生きていれば、97歳になる。
若い時から、救急病院で、深夜も土日も病院に呼び出される生活だった。
毎日、御前様のお帰りだった。
患者には、政治家や財界人が多く、深夜にも、自宅に電話がかかって来た。
日曜日のゴルフ場から、パトカーで呼び出された事もあった。
若い時から、体も精神も酷使していたと思うが、意外と長生きだったのだ。
でも、癌で母を先に亡くした。
父は、癌で痛みに泣く母を、自分で介護していた。
痛みで泣く母を、抱いて、毎日、背中を摩って、母の名前を呼んで、自分も泣いていた。
母は、一年の闘病の末、療養入院する直前に亡くなった。
そして、我が家は、父と私の、親子男子家庭になってしまった。
私では、父の介護ができないので、湖山病院に入院したのは、85歳の頃だったと思う。
6年の入院生活は、父にとって、人生、1番幸せだったと思う。
職員が、本当に良くしてくれた。
父は、毎日、リハビリ用自転車で院内を一周していた。
その時に、すれ違う職員に、毎回、笑顔で挨拶をしていたそうだ。
職員の結婚や、お子さんの成長に関心を絶やさなかった。
孫を持てなかった父は、毎日、院内保育園に通っていた。
可愛い頃の、泰成君を思い出していたのではないか。
私も、仕事で病院に行く時は、病室に寄るのだが、その時は、忙しいのだろうと、いつも15分で病室を追い出された。
でも、毎日のように、銀座の秘書に、私の動向を聞いていたそうだ。
最期まで、愚息と、湖山Gの行く末が、心配だったに違いない。
父の病室に主人が居なくなって、6年が経つ。
そこには、父の衣服も、身の回りのものがそのまま残っている。
やがては、私がお世話になる予定だ。
いつでも、どうぞと、病院に言われているのだが、予約待ちになっている。
父とは、生きていてくれた時に、もう少し、話をしたかった。
もっと、親孝行はできなかったものかと、後悔するのは、お決まりの通りだ。
ある日、なんとなく、気になって、久しぶりに携帯に電話をかけたら、父は、頭痛がすると言って、電話を切った。
その日が、父の人生最期の日となった。
でも、父は、その日から、東京の自宅に引っ越して来たようだ。
なぜならば、この日記を書く時は、いつも、私の話し相手になってくれているからだ。
誰かの、思い出になり、誰かの記憶に蘇る限り、人の魂は生きづづける。
私の魂も、この日記の読者の記憶に残っている限り、皆さんと共に生き続ける。
今日は、父の行きつけの料亭で、父のお世話をしてくれた職員と会食をする。
ありがたい事だ。
両親は、今でも、この家にいるような気がする。
私は、湖山聖道の息子として、父に守られて、生きて来た。
でも、死ぬ時は、湖山泰成として、死にたいと奮起して来たつもりだ。
しかし、今日くらいは、息子に戻らして欲しい。
そして、父には、これからも、湖山Gを見守っていて欲しい。
許して頂けると思う。
血糖149 葡萄が美味しい。
愚息 湖山 泰成