2011年3月11日

14時36分 その日、私は永田町の元厚生大臣の事務所にいた。

細長い新しいビルの14階だったと思う。

ひどい横揺れは、ビルが折れるかと思った。

眼下に見える公園には、人々が右往左往していた。

当時の若い運転手が、階段を上って、私を迎えに来てくれた。

その者に、抱き抱えられるようにして、1階まで階段を降りた。

車は、虎ノ門から銀座へ向かったが、渋滞で先に進まない。

携帯も、ネットも不通。

銀座まで何時間かかったがわからない。

その日の記憶は、あまりない。

自宅の寝室のテレビでニュースを追いつつ、メールが繋がるのを待った。

最初のメールは、静岡からだったと思う。

新潟から静岡が、最初にメールが通じたようだった。

日本海側の通信が、最初に回復したようだった。

次第に回復して来た電話とネット回線で、東北の施設の被害状況を知った。

被災地の施設からホームページで、無事の写真を掲載する。

それを、湖山Gの全国の施設が、確認する。

被災地から、ネットで生存を発信する。

そういう自主発信ルールは、その頃に出来上がった。

その日の夜に、災害救援隊のヘリコプターの団体から連絡が来た。

被災地まで、飛べると言うのだ。

湖山Gの老健のある、気仙沼まで飛べると言う。

但し、現地施設経営者の私が同行する事が条件だ。

私は、一度会っただけの人の電話を頼りに、官邸との連絡を待った。

不安よりも、気持ちが焦り、現地に行く事だけで頭が一杯立った。

そして、実際、2日後の13日、日曜日の早朝に、埼玉のヘリポートに向かった。

両親にも秘密で、当日中に日帰りする計画だった。

ヘリだったら、可能なのだ。

やがて、人生、最初で、最後にしたい、東北ヘリの旅となる。

14年前の記憶は鮮やかで、その後、忘れる事のない1週間が始まる事となる。

被災地現場の復興は、計画通りには進まない。

復興を果たした被災地は、神戸くらいではないか。

能登の復興はどうなるだろうか。

過去の被災地の現在は、厳しい。

日本は、過去の失敗から、学ぶことのできない国だと言われる。

生き残った人間は、神の御加護かもしれない。

でも、その後生き続ける事は、当人の、人間の責任だ。

でも、私は、未だ、その答えを見つけられない。

誰も、答えを聞いた人はない。

血糖128 胃が重い。

湖山G代表 サンダーバード代表 健康の駅副会長 湖山泰成

銀座湖山日記

Posted by shimada