読むか聴くか

泰成君が、字を読む事に関心を持つようになったのは、3、4歳くらいだったのだろう。
まだ、黒白テレビのアニメ。
TVでは、アメリカのアニメ、ポパイを放送している。
その字幕が読めない。
幼児には読めるわけがない。
でも、その字が読めないので、泰成君はイライラし、台所で食事の支度をしている母を大声で呼ぶ。
炒め物をしている母は、なかなか来てくれない。
来た頃には、場面が変わり、字幕も変わっている。
泰成君は、泣いて怒り出した。
そんな場面を何故か思い出した。
小学校の通学も、地下鉄の中でも、満員バスの中でも、駅からの歩行中でも、本を読んでいた。
二宮金次郎を気取ったのかもしれない。
背中に背負っているのは、薪ではなく、重いランドセルだったけれども。
家族ドライブの車中でも、本を手ばなさかった。
二十歳の頃からは、夏の日曜日は、水風呂で一日中本を読んでいた。
その泰成君も、最近は、目がショボショボする。
老眼で、読書の時は、メガネを外している。
最近は、読書量が激減し、寝床では、YouTubeで、政治や、映画や、経済の講演を聴いている。
楽だ。
昔なら、ラジオなのだろう。
でも、この状態は、何故か、退屈して来た。
一念奮起して、また、この週末は、連続読書をしている。
ベットサイドに、新着の本を10冊は積み上げ、読み切るまで、本を手放さない。
本を読むというより、本の中の知識、情報を頼りに、あらゆる事を連想するのだ。
本は、新しい思考の材料となる単語集でしかない。
レゴの部品みたいな物だ。
そうして、自分独自の考えを構築する。
このような読書は、楽しむというより、情報や知識に飢えているように見える。
ジャーナリスト、評論家、学者のような読書術だろうか。
本の中身を、分解し、吸収し、再編集する。
食べ物を、胃の中で分解し、吸収し、我が身の肉体とするのと同じ。
さあ、月曜日の朝まで読み続ける。
流石に、暑い初夏のシャワーの中では読めないが。
能登地震188日
血糖171
湖山G代表 サンダーバード代表 健康の駅理事
被災地診療特別車両カートを構想中 湖山 泰成