寝床の長電話

自宅では、殆ど寝床の上で過ごしている。
この日記も、病院用のサイドテーブルをベットの横に置いてあり、そこにアイパッドを置いて書いている。
今も。
私の後ろには、エル字の、特注の大型の木製デスクがあるが、その上は、読みたい本と、今年の正月に買った、まだ下ろしていないネクタイが、何十本と並んで置いてある。
その机で、仕事をした事は、コロナ以降ないように思う。
自宅入院蟄居独房生活となっている。
それは、嫌いではない。
実家のこの古い家は、ここかしこに昔の写真や、母の好きな陶器の人形や花瓶が飾っており、時には、ノスタルジックな気分になってしまう。
階段を降りると、母とすれ違ったような気がする。
早朝、風呂に入る習慣なのだが、その時は、先にシャワーを浴びて出てくる父と入れ違いになる錯覚というか、記憶が蘇る。
この週末は、役員会疲れで、ずっとベットの上で過ごした。
読書は、最近目が疲れるので、ユーチューブをネットサーフィンをして、映画解説や、物理学講義、時事問題を、声だけ聞いている。
そして直ぐ寝てしまう。
人の声がある方が、安心して寝られるのだ。
完全な静けさは寂しくて耐えられない。
あやしてくれる母や、お手伝いさんの声が恋しいのだろう。
赤ん坊と同じだ。
昨日は、一日中長電話をしていた。
楽な姿勢で、携帯電話をコンセントで充電しながらなので、無限に話ができる。
これから、修繕で長く使う施設。
これから、新しく建設する、街づくりプロジェクト。
どちらも、複雑で、大きな投資となる。
改めて、計画している防災プロジェクト。
その新しい企画と、大プロジェクトに、胸が騒ぐ。
気分が高揚する。
聞いている幹部も同様だろう。
本部で、ズームであっても、面と向かい合って、顔を見ながら会議をしている時は、私の決定と指示は早い。
相手の意思と返事は、顔付きと目付きで判断できる。
下手な言い訳を聞いている暇はない。
だから、ゆっくり相手の話を聞くことは、少ないと思う。
相手の顔を見れない電話の方が、じっくり相手の話を聞いている。
顔が見えないのが、良い面もあるのだ。
小説を読んで、登場人物の気持ちを想像するようなものだ。
大事な話でも、会って相談をする前に、電話で報告を聞く事を先にしているのは、私の習慣だ。
その方が、落ち着いて、考える余裕がある。
その上で、会って相談する。
その時には、私の結論も覚悟も決まっている。
また、事前に、他の幹部や弁護士と相談する事も可能になる。
私は、ピッチャーではない。
施設から飛んで来る問題のボールを、打ち返すバッターの方だ。
ホームランを打ち返す事はない。
いつも、ビッチャーゴロを返して、捕球してもらう。
私の考えを、しっかりと受け止めてもらわなければならないのだから。
経営の千本ノックと呼んでいる。

能登地震161日
血糖138 向田邦子著 父の詫び状 を何十年ぶりに読んでいる。
次は、田辺聖子著 芋タコ長電話 を読んでみよう。

湖山G代表 サンダーバード代表 健康の駅理事 湖山 泰成

銀座湖山日記

Posted by kobayashi