72時間

アメリカのテレビドラマ「24」でもないし、リーアム・ニーソンが奪われた娘を取り返す映画「96」でもない。
金曜日の夜から、月曜日の朝までの、私の時間の事である。
家にこもっている、と言うより、殆どベットの上である。
週に一度、東北から送ってもらった新米を、自分で研いで炊く。
炊飯器も新調したし、専用のヘラでお米を研ぐのも慣れてきた。
出来立てのご飯を、納豆卵で食べるのは、孤独な作業だが、唯一味わえる食事の時間かもしれない。
孤独のグルメほどにはなっていないが。
お米2合を、週末で食べるのである。
3食、ただただステーキを焼いた週末もあったが、最近は、フライパンも重く感じるようになって来た。
また、油を使うのが、億劫になってきたのだ。
そういえば、泰成君の朝食は、紅茶で、ベーコンエッグかハムエッグだった。
今は洗い物が面倒なので、茹で卵ばかりだ。
遠い昔の事になるが、母は難儀していたことだろう。
それ以外は、いつも、大勢との会食で、しゃべりっぱなしで、ついでに食事をしている風情。
会話をしながらでも、自然に手が動き、ナイフとフォークを使って食べ物を口に運んでいる。
無意識に。
特技とは言えないが。
とにかく、食べるのは早いと、注意される。
会議に一番遅く来て、1番先に弁当を食べ終わっている。
その間、私だけ、話し続けているのである。
血糖が上がるはずだ。
さて、孤独な週末にのんびり、食事を楽しんでいるかと言えば、そうでもない。
買い貯めた、本のページを必死にめくり、とにかく読了する。
テレビで、録画した映画やクラシックコンサートを流しっぱなしにする。
その間、ネットサーフィンや、本を手に取る。
本の中身よりも、手にとって装丁を吟味し、中身を想像する。
読むまでもない本も、多くなった。
高校の時、図書委員長で、古い本の装丁の貼り直しを仕事にしていた。
岩波文庫は何百冊と表紙を張り替えたことか。
書庫を作って、本を整理するのは、本当は大事な事なのだ。
昔読んだ本は、手に取ると、読んだ中身も想起する事が出来る。
ネットで読んだ内容は、思い出す事は難しい。
記憶は、全て、手触りや香りと共に残る。
心に残る本は、どこで読んだかも覚えている。
図書館や、本屋の立ち見でも。
抽象的な思想や知識も、思念だけでは、身につかない、心に残らない。
私にとって、週末は、瞑想、座禅をしているような時間かもしれない。
外に発信ばかりしている日常で、唯一、内に籠る時間だ。
さて、後、今日一日、泰成君は、何を読み、何を考えているのか。
人生の思い出の時間だ。
過去の憂いの中で、未来を考える。
未来への郷愁と、私が名づける時間だ。
魂は、泰成君に戻る。

能登地震 147日
血糖149 ひたすら眠い

湖山G代表 サンダーバード代表  湖山 泰成

銀座湖山日記

Posted by kobayashi